昭和45年3月12日 朝の御理解
                           末永静行

 御理解第72節
 「人間を軽う見な。軽うみたらおかげは無し。」

 人間を、軽うみな、軽うみたらおかげは無し。確かに、その通りですから、人間を大切にしなければなりません。もちろん、形の上で、大切にするだけではなくて、心で大切にしなければなりません。そのためにですね、自分を本当に分かるといいですね。自分というものを本当に分かりますとね、みんなが立派に見えてまいります。
 どんなに偉そうに、例えば言うておりましても、人は、自分の心の中は知りません。分かっておるのは自分だけですから。自分のような者を、自分のような汚い人間を、ということになりますとね、人が立派に見えてまいります。あいつは、汚い奴じゃなあと、例えば(        )にでも思う場合があります。けれども、自分の心の中に、比べてみたらいいです。その人よりもっと汚いものが内容にあるですから。ね、軽う見たらおかげは無しと教えられるのですから、本当に、あの私、人間をいわゆる人間尊重と申しますかね、人間を大事にしなければいけません。
 成や、形で、大事にしたり、粗末にしたりすることがあります。本当に心がけなければなりません。信心させて頂く者はね、そういう小さい一つの神経をいつも使わなければいけませんね。その、人間を軽う見な。軽う見たらおかげは無しと、仰せられる。
 今日、「金光大神言行録」を頂きますと、ここのところを頂くんですよ。岡本しげなる人、参りおる時、「金光様、お家のまわりに、麦わらの垣をなしあるたうに火をつけて、焼きたててあります。」拝しを、ある信者「金光様そういうことをする者は、罰をあてて、おやりなされませ。」と申ししに、「そういう事をする者こそ、願うてやって心を直させねばならぬ」と申された。」とあります。そういう悪いことをする奴は、金光様罰を当ててやんなさいませと、言うた者に対してですね。そういう者こそ、祈って願うてやって、改めさせなければならんと言うておられます。
 これは、自分というもの、自分というものを分かるというか、自分を見つめる、自分の汚さが分かって、汚いと思うておった人が、汚く見えてくるというようなこれは生き方、小さい神経を使うと言う意味においてですね、私共は、そこのところを心がけなければなりませんが。ここの金光様の、いわゆる、お言葉を返しますとです、やっぱりね、私共に、まあ、悪いことをする人、ね、まあ、本当につら憎いような人がありますよね。ね、けれどもね、そういう人こそです、私は、祈ってやらなければいけない。もう、あげな奴は、おらんと、普通でいうなら、あげな奴はこれからものでん言わんぞと、もうあげな奴とは、交際せんと、言うようなのがやっぱありますね。そして、自分も、腹を立てんならん。ね。ですから、それではね、やはり、おかげを受けられんのですから、ね。それを祈ってやれる信心のゆとりというものがね、大切じゃないでしょうか。ね。
 本当に、まあ、普通からいうと、つら見苦しゅうどっとおりますよ。ね。皮肉ばっかり言う。ずるいことばっかりする。もうとにかく、もう、人のすかんごたるこつばっかり言うたりしたりする。というような場合ね、なら信心させて頂くものは、それをね、あの、私、大事にするというかね、それは、どういうことかというと、祈る、祈ってあげることだと思うんです。だからそういう面が二つあるわけですね、自分というものが分かる、そこから、本当に汚い奴だと思うとったけれども、自分方が汚い自分であったと分かるところから、軽う見らんですむわけです。ね。
 と同時に今度は、本当に、今、申しますように、ね、人のすかん人ってこう申しましょうかね、物言いや、皮肉を言う、ね、いわゆる、いたずらな人がありますけれども、そういう人こそですね、例えば、祈ってやって改まらせねばならんと、教祖様は、仰っておられます。これなんかは、人を軽う見るということではなくてですね、ね、やはり神様の氏子と見ておられるからでしょうね。人間すべてを、それは、家に火をつけるような悪い人間でもです。ね、神の氏子としての見方。だいたいそういう見方が一番間違いないですね。誰でもみんななべてです。色が黒かろうが白かろうが神様の御氏子であるという一つの頂き方をですね、観念的にでも一つ分かっておおかなければいけんと思うですね。人を軽う見たらおかげは無しと仰せられるのですから、ね、だから、どうでもそこに取り組まなければいけんのですよ。
 今日は、私、そういう意味で、人を軽う見なということを、と同時にですね、「おかげを軽う見な、おかげを軽う見たら、おかげは無し」ということ。あんなことに話を進めたいと思うです。または、ね、「物事を軽う見な、物事を軽う見たらおかげはなしと。」と頂いてもいいでしょう。もう、本当に人間というものは、うかつですからね、それこそ、ありの一穴から、堤防の堤の堤防が崩れるということがあります。ね、私共は、本当に慎重にしなければなりません。もう、とにかくね、おかげを頂かなければ立ちゆかんというやっぱ思いをでけにゃいけんですよね。こんぐらいなことはもうで出てくる、自分でできるという、これが一番間違いの元です。
 田主丸の小野先生が、まだ初めの頃でしたけれど、もう、皆さんもご承知のように、毎日ああして毎日日参なさいます。もう、本当に降っても、照っても参ってみえられます。そして、その日の患者のことを、もう全部願うていかれる。ここでは、産婦人科ですが、そういうまだ、そのあちらで、殺したことがないと言われるぐらい。ね、もうそれだけでも、広大なおかげを頂いておるなあということが分かるというて、いつも思うです、また自分も言っておられますが、ある時に、簡単な手術、もう、すぐ手術をしてあげられて、すぐ帰ってもらってもいいという患者が見えたんですね。もう、いつもは、もとにかく電話をかけるひまがもし無か時にゃ、便所の中に入ってからでも、御祈念をすると言われます。もう、いわゆる、その代りも夜も夜中も無いですね。もう、電話をかけて見えます。見えられる、または女中さんを走らせられる。ね。
 もう、本当に、とりわけ、このメスを取られる時には、そういう慎重な態度でまあ臨まれるわけですけれどもね、その時に限ってですね、もうそりゃ、簡単に出きることなもんですから、ちょっと、ちょっとメスを当ててすぐ帰ってもらっていいという感じだったんです。ところが、どうした間違いでしたか、それから、出血が始まりまして、止まらんのです。とうとう、すぐ帰ってもらってらわにゃん、まあ、よかったのが、とうとう入院してもらわねばならないことになった。
 本当に、自分でばしできるように、メス一つがです。神様のおかげを頂かなければ握られないことを痛感したということを言うておられますですね。また、御医者さんですから、いつも人命に関わることですからね、いわゆる、そのくらい慎重、ですから、なら私共は、おかげをおかげというて、そのおかげを頂かなければならんのですから、そのおかげにいわば関わることなのですから、ね、慎重に行かにゃいけませんよ。
 それにはね、やはり、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという、ね、もう、金銭のことでもそうですよ。ね、お繰り合わせを願うて願うて、願い抜かせて頂いて、おかげを頂くと。ね。願う所にです、私共、金光様の信者は、願うからには、やはり、こちらが信心に心を向けておりますからね、イライラしたり、腹を立てたりは、だから、願っておるからには、できませんもんね。いわゆるおかげと直結するのですから、イライラが、モヤモヤが、腹立ちが、ね。ですから願うからには、真剣に願うからには、そこんところも、もちろんでけていかなければなりませんがです。だから、信心が進むんです。願い事が大きければ大きいほど。
 それは、本当にですね、例えば、かもいで額口を打ってもです、はっと思うて、自分に、我に返って、自分の心を見てごらんなさい。もう、その時、確かに、ね、おろおいことを考えたりしとるです。はあ、すいませんとやっぱ言わなければおられないです。ね。
 信心生活というふうに申しますが、私は、そういういつも神様にその、願っておるというかね、もう、いつも自分で出来ることはないと、神様のおかげを頂かなければ出来んのだ、立ち行かんのだとという、この思い込みをですね、いわゆる障子一重がままならぬ人の身ということをです、本当に分からなければいけんと思うですね。
 先日、税金のことで、ちょうど、まあ向こうから言うて来られる、すると、50万から払わなければならんと言う訳です。今、その私の店から、50万払うてしもうたら、店をやめんならんごとなるち。ところが、おかげを頂きましたんですよね。もう、本当に嘘のようなおかげ、まあ内容は申し上げられませんけれども、とにかく嘘のようなおかげを頂いたんです。そしたらね、お礼のお供えが千円とお酒1本じゃった。(笑)私は、皆さんにね、お供えのたくさんしにゃいけんという意味じゃないですよ。おかげを軽う見たんですよ。
 「神様にお願いしとらじゃったっちゃ、こげなふうになったじゃろ」というふうに、段々なってきたわけなんです。もう、それこそ、私がそれを聞かせて頂いて、もう本当に神様ちゃ、どうした、まあ、前々からそのような準備までしてあったのかというぐらいにというおかげを受けたんですよ。ね。ですから、それはね、それは、御神酒1本だって、千円だって、百円だっていいんです。けれどもね、そのおかげを受けたという実感が薄なって、もう、そのまでは、とても、もう本当に青なり、赤なりしよったんです。そして、おかげを頂いてしもうたら、ね。やっぱそう言葉には言わんけれども、おかげ頂いたと言よるけれども、おかげの実感というものがです、薄くなったから、それで、もう事足りたごと、済んだというふうに思うておるのじゃないでしょうか。
 そういう例は、しかし、たくさんあります。そういう時をですね、あのおかげを受けていく人、よりおかげを頂いていく人、より信心が進んで行く人はですね、そのおかげを非常に鄭重にいたします。四神様の御言葉の中にございますですね。「氏子3つのおかげを頂いたら、5つ頂いたように喜べと仰る。10のおかげを頂いたら、20も頂いたように喜べと、ね、次には、20のおかげぞ」と仰っておられます。ね。普通、目に見えるところでは、3つしか頂いとらんごたるけれどもです、もう5つ頂いたように喜べと、次には、5つのおかげが頂けるぞと。 もう、これは、おかげ頂いていく一つの機微ですよ。まあ、いうなら、コツというてもいいでしょう。ね、10のおかげを頂いたら、それこそ、ちっとオーバーでも良いから、20ぐらい頂いたごと言えと仰る。次は、20のおかげにしてやろうと仰る。それは、なぜかというとですね。実を言うたら、人間の見た目には、なるほど、5つにしか見えんと、10にしか見えんのだけれどもです、本当言うたら、それ以上のおかげを頂いておるからなのですよ。神様は、自分のやったおかげをね、宣伝してくれというふうな意味で仰るのじゃない。私共は、そこが分からん。凡夫ですから。「はあ、おかげを頂いた10も頂いた」とこう、思いよるけれども、神様の実の働きは、20もの30もの目に見えないところのおかげを下さってあるんです。それを、私共は、分からんから、「はあ、おかげ頂いた、10のおかげ頂いた」と思う時は、だから、大抵、20おかげを頂いたごと言いよらなければ、間に合わん、追いつかんのうが。ね、けれども、そういう心掛けになると、次には、20のおかげと仰られたもんね。これは、もう信心をです、いや、おかげを頂いていくコツです。ね。 
 甘木の初代が仰っておられたと、お礼参りに来ると、そすとね、もう、それこそ「篤い御礼を申し上げんならんよ」ともう、繰り返し繰り返しおっしゃるそうですよ。そう言われとるうちにですね、「はあ、お礼が足りじゃった」と気が付くそうです。「神様にな、篤く御礼申し上げんならんよ」ちいうて、もうそれは、もう側で聞きよってから、あげん言いなさらんでん良かろうち言うごと、言いなさるということは、私一辺、本部の樋口さんから信徒会の時に昔、聞かせて頂いたことがあるんです。そのね、「篤い」ち言いなさるその具合が、なんとん言えんごと言いなさるち。だから、繰り返し繰り返し言われよるとですね、はあ、お礼が足らじゃったと思うてから、またお礼にみえてくる。 なぜかって、また次のおかげを受けなければなるまいがというのが、親先生の心の中にある。まだ、次には、もっとおかげを受けたかろうがというのです。そんなら、「篤い御礼を申し上げなん」ということをです、言われる。人間と言うの者はね、本当にそりゃ、それこそ、汚いもんですよ。さっきの税金の話じゃないけれどもね。いつも例話にでますように、ね。
 ある山越えをし、山越えをして行かなければならない。その旅人が、はらぁ、もう夕方になってきたから、心細い。そこへちょうど、関取さんが、通り合わせられて、自分は、今夜あの山をどうしても越していかねばならん。あなたと一緒に行きゃあ、もう大丈夫だというので、その一緒に山越えをしたというんですね。山賊が山の中で出てきてから、それこそ身ぐるみ置いていけと、言うことだったらしい。ところが、こちらは、そのお相撲さんですから、関取ですから、力が強いから、まあ、山賊達を、おっ払って、そして、まあ、無事に山を越したと。ね、そん時に、自分は、ガタガタ震えながら思うたて、この場をいっちょ助けてもらうのだからね、本当にそのまあ江戸の人だったらしいですが、「今度江戸に帰ったら、あの関取のところにお金の十両ぐらいは、お礼に持って行こう」と思うたち。(笑い)ね。段々今度は、もうそこんところを、危難を逃れて、向こうへ降りる頃にはね、「ただ、別にその、助けてもらうのを助けてもらったちゃけれども、まあ、五両ぐらいで良かろう」ちごとであったと。(笑い)それが段々して行きよる3両になったち。また行って帰って江戸に帰った時には、「別に自分がおらんでん、やっぱり山賊は出てくるとじゃっとるとじゃろうから、自分も助からしゃらなんじゃったちゃから、ね、まあ、旅は、道連れで、向こうも賑やこうして良かったっじゃから」とうとうお礼に行かんじゃったち。(笑い)
 けれども、そんなもんですよ。人間ていうものは。本当におかげの実感のある時にですね。しときませんとですね、段々薄なって、薄なるじゃない、人間の欲の方が強いからです。おかしなことですけれど、ね、やはり信心させて頂く者は、そこへんのところをようと分かりゃないかんと思うです。ね、おかげを軽う見る。ね、人を軽う見たらおかげはなしと仰るようにね、おかげを軽う見たら、おかげはない。おかげを頂いていくほどしの、人ほどです、おかげを非常に慎重に致します。ですから、それだけ有り難い、勿体ない、いわゆる和賀心が強いのです。強いからおかげを受けるのです。 問題を軽う見な。よかよかそんぐらいなこつなら、ということがいかん。私は、あの、ここで御取次ぎをさせて頂きます時にね、簡単に、もう、まあ、いうなら立ちながらお願いしますというような、まあ、立ちながらお願いする人はないですけれども、まあ、いうなら、そんなに簡単に、お初穂も包まんで、ちょっと久留米まで行きよりますけん、お願いしますち、ちゆうごたるふうで、言う人があるんですよ。私は、そういう人ほど、だから、慎重にお願い致します。
 だから、ここで私が、「はいはい」と言うてんなら、言うたことは、引き受けたことですからね、いうなら、ね、ですから、例えば、自動車、車で行きよる間にですね、お金を落としたとか、事故にあったとか、言うたら、「お願いしていったつよ」ちいうことになりますとですよ、ね、自分なもう車で行って帰ってくるとじゃけん、簡単なこつじゃけれども、御取次ぎさせて頂くものは、そこんところを慎重にですね、であればあるほど。だから、鄭重に御取次ぎを願われるなら、こちらのほうが楽です。そういうことがあります。
 私、一辺、失敗したことがあります。以前、参っておられました、関さん達親子が、私を善導寺に送って下さるということだったんです。ね、それで、もう、私、慌ててその乗らせて頂いてから、ほんなそこを出た途端でした。もう、それこそ、御広前までガ-ンと音がしたそうですが、その、まあ、おかげを頂いてから、向こうの方のトラックの方が悪かったんですから、その、向こうの方から修繕はして下さいましたですけどね。こう、出か、出かかったのと、向こうから来たのとが、もう一緒じゃったんです。乗っとっては、そう感じなかったけれども、大変な音がしたって、お昼まで言うくらいでした、けれども、あれが、もう一秒間でも違うておっても、もう少し前に出とったなら、もうそれこそ、命が無かったかもしれませんよね。私は、もう、それ以来、本当にちょっとそこまで出るでも、必ず御祈念をして行きます。誰の車に乗せて頂くでも。
 あん時に私がですね、本当にここで、いつものようにですよ、ちょっと、ここで、御祈念を、拍手してお願いを、「今から善導寺やらせて頂きますから」とお取次ぎを頂く思いでお願いをして、立たせて頂いておったらね、あの事、ああいうことはなかったと。そりゃ、こちらに損は、なかったけれども、向こうに損をかけてる。ね、もう、以来私は、もう、例えばちょっとそこまで出ていくでも、お願いをしていかねばおられない、お取次ぎを頂いていかねばおられない。必ずこれを実行いたします。
 みなさんがね、それこそ平気で、なんでもない、ちょっと行ってくるぞで行ってきよりますけれども、それは、御守護の中にあるから、行って帰ってもきよりますけれども、ね、けれども、実を言うたら、願うて行かなければおられんのです。いちいち教会に参ってきなさいじゃないですから。ね。自分ところの御神前に、ね、ちょっと名目をする、ちょっと拍手させてもらう。ね、私は、そのへんが大事だと思う、物事というものを軽う見な、軽う見たらおかげはなしと仰る。それが、次の大きなおかげにも響いてくる訳なんです。
 私は、信心生活というのはですね、ある意味で、今日私が、申しましたように、もう、一時が万事に、神様。という私は、そういう思いを持って、一日を過ごさせて頂く生活だと思う。だからこそ、「今日も神様、おかげを頂いて平穏無事、おかげを頂きました。」ということが言えるのじゃないだろうか、ね。おかげをおかげとして、実感できるのじゃないでしょうか。ね、「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし。」そのためには、いよいよ自分が分からなければいかん。あの人、どうした根性の悪い人じゃろうか、どうした汚いずるい人じゃろうかと、自分の心を本気でもう一辺見直してごらんなさい。ただ、見るだけじゃいかん。自分の心を顕微鏡にかける思いで見てごらんなさい。本当に教えを鏡にして、見てごらんなさい。もっとずるいもの、もっと汚いものがあるのですから、ね。 キリストの中には、お話の中にありますですね、一人の女を取り巻いて、みんなが石を投げたり蔑んでおったちゅうわけですね。それは、娼婦なんですね、それを見たキリストがね、自分の心にもそういう娼婦のような心が無いものだけが石を持て打てと言った。という言葉がありましょう。いかにも紳士のようにしておっても、淑女のようにしておっても、それこそ、ひとたび、電気が消えたら同じじゃないか。ね。そういう例えば、娼婦のような心の無いものだけが、石を持て打てとこう言ったと。というようにです、自分という者を掘り下げた時にですよ、ね、とても、ね、卑しい商売をしておるからと言うて。ね。
 私は、もう、料亭なんかに行きましてからですね、女の方達に、「おいこら」なんて言う人を聞くと、胸がずーんとします、本当。まあ、なんと遊びの心得を知らん人だじゃろうかと思いますよ。(笑い)まあ、これはね、いわばね、もう、絶対、おなごは、「今奴が!」と思っとっですよ、心の中で。金ば貰わんなんけん、はいはいち言いよるだけですよ。おいこらっち。ぬしだんはどうしよるかっち、いうふうなことば言う人があるです。もう、本当に、私は思うんです、信心しよったちゃ、そういうとこがあるです、そげん言うとがよかつのごと思うとる。
 人を軽うみたらおかげはなしです。それには、自分という者ぐらい分からせてもらうことによって、鄭重に扱うことが出来る。と同時にです。ね、例えば、様々な、それこそ家に火をつけるような悪人の場合であってもです。もうそげな奴には、罰、罰を当てたいごたる思いがするけれどです、ね、そういう者こそ、ね、神の氏子としての取り扱いをせよという意味のことを教祖様が仰っておられるような頂き方です。いわゆるなべて神の氏子としての見方なんです。ね。
 「人を軽うみな、軽う見たらおかげはなしです」と仰るのですから、もう、本気で一つ、人を軽う見ることは、やめなきゃいけません。ために、自分がいよいよ分からにゃいけません。ね、次に、ね、「おかげを軽う見な。おかげを軽う見たら、おかげはなし。」もう、頂いても、次のおかげが頂きにくくなるです。ね、ですから、そこんところを、甘木の親先生じゃないけれども、「篤い御礼申し上げなならんよ」ということをです、いつも心にかけとかなければならん。自分は、5のおかげを頂いておるごたるけれども、実際は、10のおかげを頂いておるんだとして、篤うお礼を申し上げていく信心態度が、必要ですね。
 同時に、物事です。「物事を軽うみな。軽う見たらおかげはなし。」おかげを落とす。そこから、ありの一穴から、ね、堤防の堤も切れるというふうなことがある。ただありの入ってくる小さい穴からです、堤防が切れるようなことがあるという例えなんですね。そこで、私共が、今日は、私が申します意味においての信心生活、ね、信心生活とは、いつも、とにかく神様を心にかけておる、念じておるということ。ちょいそこまで行くでん、「神様、そこどこどこにやらせて頂きます」というようなね、私は、祈りというものを、まあ、いつもなからなければいけないと。こんぐらいなことは、自分で出来ると、というそのことがもう間違い。それを、まあ、小野先生の例を持って申しましたですね。どうぞ、「人を軽う見な、ね、おかげを軽う見な、物事を軽う見な」ということを申しました。そしたら、ね、おかげが無いと仰るのですから、どうでもおかげを頂かなならんですけんね。どうぞ。


末永静行
平成19年3月19日